2週間ぐらい前の産経新聞の詩とか短歌とかを紹介するコラムに、
どなたですか? ぼろぼろぼろぼろ コトバをこぼしながら歩いているのは
ちゃんと拾ってごみ箱に捨ててくださいね
という詩が紹介されていた。
昔、「産経新聞を読んでいる」と言ったらレフトウイングの方に「右翼」というレッテルを貼られたことがあるが(笑)、まあ私は情報誌をやっていた頃からの仕事柄、新聞は右っぽいやつと左っぽいやつと地元っぽいやつを大体一緒に読んでいるという情報収集の仕方をやっているので、それらによって培われてきた私の「ものの考え方」は、項目によって右っぽいこともあれば左っぽいこともあるけど、いずれにしろレッテルを貼られるほどの右でもなければ、筋金入りの左でもなくて、基本的には「原理原則をベースにした是々非々」というスタンスだと自分では思っている。でも、自分ではそう思っていても他の人から見るとそうは見えないことも多々あるので、ファクトベースのロジカルな“アウフヘーベン”なら自分の意見を主張することもあるが、情緒的な議論は友人たちとの井戸端会議にとどめて、井戸端から外へは発信しないことにしているのである。
ところが、ネットやSNSが普及してくるにつれ、かつてなら井戸端会議で終わっていたような個人レベルの無責任な会話が世間にダダ漏れするようになってきた。そこで私は、今まで目にすることもなかったようなそういうやつをまあ時々楽しく眺めているところであるが(楽しんでるんかい・笑)、ネットやSNS上の個人レベルのやり取りには、私は入っていかないことにしている。理由は、まあイメージである。
ネットやSNSによる個人の情報発信と、新聞やテレビ、雑誌といったいわゆる「マスコミ」(今は「オールドメディア」と言われているのか?)の情報発信との大きな違いの一つは、「編集長がいるかいないか」である。マスコミは政治や経済や社会問題等に限らず、お店の紹介レベルでも、末端の記者やライターがそれなりに推敲して書いた原稿を編集長がチェックして不適切な表現や不正確な内容等を修正し、さらに優秀な編集長はその原稿にちゃんと付加価値があるかどうかを見て採否を決めたりする。さらに、その編集長のさばきを社長等のトップが評価し、場合によっては編集長を交代させたりする。つまり、個人の書いた原稿はたいていの場合、そうやって少なくとも2段階のチェックが入るわけである。そして、マスコミの記者やライターはそういうことを何年も何年も繰り返しながら、学習して上手になっていく…と書くと「出来の悪い編集長や偏ったトップもいるではないか」という話が出てくるが、そこは今回の論点ではない。「個人のネットやSNSでの情報発信は編集長のチェックが入っていない」という話である。
で、ネットやSNSがなかった時代から情報発信の仕事をしていた私は、この「編集長のチェックの入っていない個人の原稿があふれている」という状況について、「一般道や高速道路を無免許の車が大量に走っている」というイメージを持っているのである。もちろん、無免許でも安全運転で走っているドライバーもいるが、無免許で交通ルールも守らず無謀運転を繰り返すドライバーもたくさんいる…というイメージである。では、そんな状況下で事故に遭わないためにはどうすればいいか? 「そんな道路は走らないにこしたことはない」というのが私の作戦である(笑)。無謀運転する無免許ドライバーをいちいち指摘して諭していっても切りがないし、大体そういうやつらは諭しても聞かんし(笑)…などという持論を持っているところへさっきの詩が目に止まったので、ちょっと絡んでみたのである。コラムの記事はその詩を別な意味に解釈していたが、解釈は人それぞれということで、まあいいかと。
昨日はミステリー作家の小西マサテル先生(笑)こと「迷惑なねっく」と1年ぶりにゴルフに行って、いや、スコア的には「ゴルフのようなもの」に行って、ねっくの飛行機の時間まで南新町の「南珈琲店」でコーヒーを飲みながら、文章の文末に「ー」を付けるのと「ーー」と付けるのとのニュアンスの違いや、「…」で終わる場合と「…。」で終わる場合の書き手の気持ちの違いや、受け取る側の感覚の違いや、「…!」という変化球みたいな終わり方の作者の意図やその是非…等々の“昭和の物書きの井戸端会議”をしたが、ねっくから昔とは違う「令和の編集者」の感覚の話も聞いたりして、なかなか勉強になった。まあ多くの皆さんにはどうでもいい話だと思うが、おっちゃんら、めんどくさいけどそんなことも考えながらやってますんで。ゴミのような言葉をボロボロこぼさんように気をつけながら、手に持った物はボロボロこぼすようになってきましたけど(笑)。
