プロフィール

田尾和俊

著書一覧

プロフィール詳細

詳細の枠があるというので、たぶんこういうことではないと思うが、書いてみる。

誕生

  • 1956年(昭和31年)1月20日…香川県三豊郡(現三豊市)詫間町松崎で生まれる。父は当時の電電公社職員、母は近所の縫製工場勤務。家は兼業農家。

幼少時代

  • 1960年(昭和35年)…たぶんこの頃、松崎幼稚園に入園。
  • じいちゃんと火鉢を挟んで、日露戦争や大東亜戦争の話を聞きながら育つ。いつもじいちゃんの刻みたばこの副流煙に包まれていたが、今のところ体に影響はない。

小学生時代

  • 1962年(昭和37年)…松崎小学校に入学。
  • 修学旅行は1泊2日で高知に行って桂浜と龍河洞と高知城を見た。
  • 近所の池の土手で蝶々を捕っていたらカメラを持った知らないおじさんがやってきて、網を持ってポーズをとらされて写真を撮られて2日後、四国新聞に「虫取りをする子ども」というキャプションが付いて載った(私のマスコミ初登場)。
  • 卒業時にお世話になった小笠原先生の家(善通寺)に生徒11人で遊びに行って近くの食堂でみんなで昼ご飯を食べたら食中毒が発生して2日後、四国新聞に「子どもたち11人中10人が腹痛を訴え」と報道されたが、そのうち腹痛を訴えなかった1人が私(私の2回目のマスコミ登場)。
  • 高松で東京オリンピックの聖火リレーを見る。
  • 詫間にあった映画館「新詫館」だったか「神詫館」だったかで、初めて映画を観る。確か、『キングコング対ゴジラ』と『エイトマン』の2本立て。

中学時代

  • 1968年(昭和43年)…詫間中学に入学。約4キロの自転車通学。
  • 軟式テニス部に入部したが、3年間鳴かず飛ばずの成績で終了。
  • 修学旅行は関西汽船に乗って九州へ。阿蘇山とグラバー邸と太宰府天満宮ぐらいしか覚えてないが、中一の時に友達に紹介されて始めた文通の相手の女の子に太宰府でばったり出くわすという奇跡があった。
  • 周りがみんな巨人ファンだったので、無理やり阪神を応援し始めて今日に至る。
  • 友達の島田君と2人で大阪万博に行く。
  • 初めてレコードを買う。何がどうしたのかわからないが、買ったのはフランシス・レイ楽団の「雨の訪問者」。

高校時代

  • 1971年(昭和46年)…観音寺一高入学。詫間駅から汽車通学。いつも一緒に通学していたのは遠山と三宅とつぐちゃん。
  • 中学の延長で軟式テニス部に入部。2年間鳴かず飛ばずだったが、3年の高校総体県予選で突然ベスト4に入ってインターハイ(愛知県豊橋市)に出場。1回勝った。
  • 修学旅行は、黒部ダムを見て蓼科高原でイナゴの佃煮を食べて富士急ハイランドに行ったのは覚えている。
  • 友人の長船君たちに誘われてどっかに食事に行って初めて餃子を食べて、何か大人になった気がした。

大学時代

  • 1974年(昭和49年)…関西学院大学に入学。私立は関学と立命に受かったが、授業料が安い関学の経済学部に行くことにした。国立は神戸大学を受けたが、宿で寝過ごして落ちたという衝撃の挫折。
  • 「スポニチ」で3年半ぐらいバイト。最初の1年ぐらいは夕方から深夜までの発送部。後半2年半ぐらいは特報部(競馬、競輪、競艇)で主に競馬担当。そこで当時スポニチに予想コラムを連載していた横山やすしに会ったのが、私が会った芸能人の2人目(1人目は中学時代に高松三越の屋上で見たデビュー間もない布施明)。
  • 友人に誘われて「カンサス」のコピーバンドに入り、1年ぐらい練習に参加。
  • 「スポニチ」からそのまま入社を勧められたが、田舎の長男なので香川に帰るため断る。
  • 卒論は、父の勤める電電公社の人脈と資料を駆使した(笑)「電電公社の経営から見た公益企業論」。

広告代理店時代(株式会社セーラー広告社)

  • 1978年(昭和53年)…セーラー広告社(現セーラー広告)に入社。営業部に所属し、休みなく泥のように働く。
  • 仕事の合間に社員で「柳ジョージ&レイニーウッド」のコピーバンド「ご承知バンド」を結成。社内情報を満載した手書きの「ご承知バンドニュース」を年3~4回のペースで発行し、地元マスコミ等から「公式の社内報より断然おもしろい」と評判になる。
  • 1982年(昭和57年)…会社の新規事業で子会社を設立して月刊のタウン情報誌を創刊することになり、どうも「ご承知バンドニュース」が原因で出向を命じられる。子会社名は当時の役員が考えた「株式会社ホットカプセル」であるが、後に「ホットカプセル」という“ビニ本”が発見されたことは、関係者一同、墓場まで持って行くつもりだった。

タウン情報誌時代(株式会社ホットカプセル)

  • 1982年(昭和57年)…『タウン情報かがわ』創刊と同時に編集長に就任。社員4人で泥のように働く。
  • 創刊号から連載を始めた「笑いの文化人講座」が大ヒットし、地元中高生のカリスマ企画にのし上がる。
  • 1984年(昭和59年)…「笑いの文化人講座」のスピンオフ・ラジオ番組として、RNCラジオで『そんなわけ、ねーだろ!』の放送を開始。ピーク時には10代~20代の聴取率で『オープナイトニッポン』を抜き、全国誌の『ラジオパラダイス』で紹介される。
  • 1985年(昭和60年)…第1回「NTT全国タウン誌大賞」で金賞を受賞。
  • 1989年(平成元年)…今日の「讃岐うどん巡りブーム」の発端となる「ゲリラうどん通ごっこ」の連載を開始。
  • 1993年(平成5年)…「ゲリラうどん通ごっこ」を加筆再編した単行本『恐るべきさぬきうどん』を発行(平成14年までに5巻発行)。
  • 1994年(平成6年)…株式会社ホットカプセルの代表取締役社長に就任。
  • 1999年(平成11年)…「讃岐うどん巡りブーム」を起こしたということで、「高松市文化奨励賞」を受賞。
  • 2002年(平成14年)…親会社から突然「代表権のない会長就任」を打診され、数日熟考の末、考えていた情報ビジネス構想の実現が不可能になると判断して会社を辞めることにした。退社時のホットカプセルは、社員45人、年商約9億円、経常利益は約4500万円という感じ。

浪人時代

  • 2002年(平成14年)…4月から無職の浪人生活を始める。25歳で結婚して以来、あまりに忙しくて新婚旅行も家族旅行も行ってなかったので、家族でハワイに行った。

タウン情報全国ネット時代

  • 2002年(平成14年)…東京の「タウン情報全国ネットワーク」から打診があり、副社長に就任。浪人生活は2カ月で終わり、6月から「毎週月曜の朝一の飛行機で東京に行って、安いホテルで4泊しながら仕事をして、金曜の最終便で高松に帰る」というサイクルが始まる。マイレージはメチャメチャ貯まったが、飛行機に乗って気圧変化を繰り返したせいか、不整脈になった。
  • 四国学院大学から「2003年に新しい学科を創設するにあたり、教員を探している」という打診を受ける。小考の後、「給料は激減するけど、全く違う“畑”でやってみるか」ということで、「タウン情報全国ネットワーク」に相談したら承認されたので受けることにした。

四国学院大学時代

  • 2003年(平成15年)…4月から四国学院大学社会学部カルチュラルマネジメント学科教授として働き始める。
  • 2003年(平成15年)…「讃岐うどん巡りブーム」を起こしたということで、新設された「かがわ21世紀大賞」を受賞。
  • 2006年(平成18年)…「讃岐うどん巡りブーム」を起こしたということで、「四国観光殿堂」に選ばれる。
  • 2006年(平成18年)…大学の授業の一環として、フリーマガジン『インタレスト』を創刊(年2回発行で継続中)。
  • 2006年(平成18年)…FM香川で『麺通団のうどラヂ』の放送を開始(継続中)。
  • 2007年(平成19年)…「讃岐うどん巡りブーム」を起こしたということで、「四国新聞文化賞」を受賞。
  • 2015年(平成27年)…讃岐うどんの過去を編纂する「讃岐うどん未来遺産プロジェクト」を開始(継続中)。

といったところで、概要どうであろうか。それぞれの時代にエピソードは山のようにあるが、そのあたりはこれまでの「団長日記」に大ネタ小ネタで紹介してきたし(バックナンバーは面倒なので消したが)、これからも機会があれば触れることもあろうかということで。誤字脱字があればご容赦を。