羽生、あと一歩。

 将棋の「王座戦」の藤井聡太王座への挑戦者を決める決勝トーナメントが「羽生vs永瀬」で決勝戦を迎え、羽生が勝てば2回目の藤井聡太とのタイトル戦になるところだったのでCSの囲碁将棋チャンネルで生中継を凝視していたのだが、残念ながら負けてしまった。ふー、なかなか厳しいのー。

 将棋界は今のところ藤井聡太が「一強」の状態で、8大タイトルで言えばこないだ伊藤が「叡王」を奪取して「藤井7冠、伊藤1冠」となったが、依然として「藤井vsその他」という勢力図には変わりない。その8大タイトルの過去2年間の出場棋士と出場回数は、次のような状況になっている。

16回 藤井聡太 (22歳・愛知県)……(通算タイトル獲得数・23期)

 4回 渡辺 明 (40歳・東京都)……(通算タイトル獲得数・31期)

 3回 伊藤 匠 (22歳・東京都)……(通算タイトル獲得数・  1期)

 2回 菅井竜也 (32歳・岡山県)……(通算タイトル獲得数・  1期)

 2回 永瀬拓矢 (31歳・神奈川県)…(通算タイトル獲得数・  5期)

 2回 佐々木大地(29歳・長崎県)……(通算タイトル獲得数・  0期)

 1回 羽生善治 (53歳・埼玉県)……(通算タイトル獲得数・99期)

 1回 山崎隆之 (43歳・広島県)……(通算タイトル獲得数・  1期)

 1回 豊島将之 (34歳・愛知県)……(通算タイトル獲得数・  6期)

 8大タイトルの2年間だから計16回のタイトル戦のうち、藤井は全部出ているので出場回数は「16回」。その藤井と対戦した回数が一番多いのが渡辺の4回で、以下、伊藤が3回、菅井と永瀬と佐々木が2回、羽生と山崎と豊島が各1回。で、伊藤の1回以外は全部藤井が勝ったという結果である。

 この「タイトル戦出場回数」を年代別に集計すると、

20代…21回

30代…  5回

40代…  5回

50代…  1回

となる。20代は21回のうち16回が藤井であるが、藤井を除いて集計する意味もあまりないのでこのまま見ると、とにかく今日の将棋界は20代が全盛で、次いで豊島と永瀬を中心とした30代。そして40代は渡辺、50代は羽生がその代表として頑張っているという図式である(もちろん、それ以外にも紙一重の棋士はたくさんいるが)。

 たぶんこれは「AIを使った研究」に対する適性の差が大きいのだろうと思う。つまり、AIのなかった時代に頂点を極めた棋士は、自分の中にAIが示さないセオリーや実践例が相当のハイレベルで構築されているはずだから、AIが示した予想外の一手に対して「え? 何でそれや」というワンクッションが大きくて、あるいはそれまでの常識と経験値が邪魔をして、「AIの将棋」に入って行くのにちょっとストレスがかかるのではないか。一方、結構早くからAIで研究を始めた世代はそこの引っかかりがあまりストレスにならずにどんどん吸収していけるから、伸び方がやっぱり早いのではないか…などと、素人ながらに思ったりしている。

 で、そんな中で私は断然、“羽生推し”なのである。理由の一番は以前にも白状したが、その“佇まい(たたずまい)”である。

 羽生が無敵だった時代は、「頂点に立った者の佇まい」がよかった。そして、「圧倒的な頂点に君臨し続けていた者が無冠になった時の佇まい」がとてもよかった。さらに、無冠になって名人戦のA級からも陥落した後の今日までの佇まいが、私にとってとても心地よいのである。将棋連盟の会長になった後、新設された「達人戦」で優勝してその表彰式で会長としてニコニコしながら「優勝、羽生善治殿」と自分の名前を読み上げて“エア受賞”して会場の笑いを誘うという佇まい。棋戦で息子のような世代の20代の棋士に負けた後の、無心で将棋の深さを追求するかのような感想戦の佇まい…等々。

 「そんなの、多くの棋士がそうじゃないか」と思うかもしれないが、私はたいていこういう時、「自分が羽生だったらどう振る舞うか、自分が前人未踏のタイトル通算99期獲得という超人的な頂点を極めた羽生だったら、失冠、A級陥落後にどういうメンタルで振る舞うか?」と考えることにしている。すると、「これはおいそれとできることではないぞ」ということが、よりヒシヒシと感じられるのである。頂点を極めた後、引退して政治家になったりメディア等で政治や経済や社会に物申すポジションに進出したりする人もたくさんいるが、それはそれで人生の選択の一つだとは思うけれど、自分ができる、できない、できている、できていない、は別にして、「私が憧れるのは“羽生の選択”の方だ」というだけの話である。

 こういう話をすると必ず、“事情通”とやらの人が「いや、羽生は実際はこんな奴だ」とか「こんなことをやっているのを知らないのか」みたいなことを言う人が出てくるが、私はおそらく一生メディアでしか「羽生善治」を見ないのだから、そんなことはどうでもいいのである。今までメディアで見てきた「羽生善治」をメディアの中で楽しんで、「メディアの中の羽生の佇まい」から自分のためになることを一つでも得られれば、私にはそれで十分である。将来、もし羽生がどこかで何かを“やらかした”としても、たぶん私は「あの時の羽生はよかった」と懐かしむだけである。やらかさないと思うけど(笑)。